十津川村
東 達也

瀞ホテル

今から100年以上前に開業した瀞ホテル。一度は廃業したが、紀伊半島大水害をきっかけにUターンした東さんが喫茶として再オープン。当時の風情ある趣きを残したまま、店は新たな命を吹き込まれた。

筏師たちのターミナル「瀞ホテル」喫茶へようこそ

和歌山、三重、奈良の三県にまたがる国の特別名勝、瀞峡。初めて訪れた人がまず驚くのは、瀞ホテルのその立地。断崖絶壁に建ち、目の前をエメラルドグリーンに澄んだ深く静かな川が流れる。巨岩や奇石が織りなす幽谷の秘境。岩壁には十津川村特有の深い霧がかかり何とも幻想的な雰囲気がただよう。
ここに瀞ホテルが創業したのは1917(大正6)年。今から102年前のこと。東さんの曾祖父が始めた。今のように陸路や道路が発達する前、河川が重要な交通網だった時代、村の男衆の多くは、筏師か山師の仕事に就いていた。その筏師が泊まる宿として開業したのが始まり。ちなみに筏師とは、山から伐り出した木材を筏に組んで河川を下り、材木市場まで運ぶ人を指す。
「昭和初期、瀞峡が吉野熊野国立公園に指定されたことと、1955(昭和30)年にダムが出来てから水量が減り、林業が斜陽で筏師の仕事が減っていったこともあって、観光客相手の宿にシフトしていったそうです」
東さんが子どもの頃、記憶に残っているのは、宿がたくさんの宿泊客で賑わい、お客さんとおしゃべりしたり遊んでもらった記憶。
「今、喫茶スペースになっているこのフロアは昔、自分たちの居住スペースで、和室が4部屋とリビングがありました。この棟と別に、吊り橋で渡れる別棟もあって、当時は部屋食を出すのに吊り橋を渡って運んでいたそうです」
喫茶の上、2階はかつての客室で、現在は使われていないが、畳の大広間とむき出しになった回廊がなんとも粋な空間だ。レトロな回廊から瀞峡を見下ろせばまるで断崖絶壁に立っているような気分になる。
東さんは十津川村生まれ。村の小学校を出た後、中学からは祖母の住む和歌山県新宮市へ。大阪のアパレル会社で働いていた23歳の頃、父親が亡くなり、宿は閉鎖を余儀なくされた。「いつかは宿を復活させたい」。そう思いながらもきっかけがつかめないまま、時間だけが過ぎていた頃。転機になったのは、2011年に起きた紀伊半島大水害。当時、東さんは大阪にいた。目の前を流れる北山川は約20メートルも増水し、高台に建つ宿は、地下部分の別棟が浸水、炊事場や風呂場が流された。
「あと30センチ迫っていたら、この喫茶部分も危なかった。見せられた写真では、川は波打つほどに氾濫していました。村に戻ってみると想像以上の惨状で、これをきっかけに実家に戻って宿を継ごうと決意しました」
宿を閉鎖してから7年が経ち、水害による建物の修復も必要だった。宿としての営業再開には大がかりな改装が必要だったため、まずは、喫茶として再オープンしたのが2013年のこと。店内にはアンティークの家具や廃校になった母校から譲り受けた調度品があちこちに飾られ、時代をタイムスリップしたかのような雰囲気にいろどられた。
「昔はアンティークに興味がなくて、好きになったのは、大人になって大阪で暮らし始めてから。実家に骨董品があったことを思い出して、友人を連れてくるとすごく驚かれて。自分にとって当たり前なことが実はそうではなかったと、県外に出て初めて気づかされました」
柱時計は、よく見ると文字盤にレコードのドーナツ盤があしらわれた、友人によるリサイクル作品。小学校の校長先生が使っていたという年代物のデスク、影絵を映すための観音扉の幻灯機。本を収納するブックエンドは、体育館で壇上に上がるための階段だ。かつて、様々なシーンで活躍していた物が再び「瀞ホテル」という舞台を与えられて命を吹き込まれた。
店内では自家製ジンジャーエールやコーヒーなどのドリンク、コトコト煮込んだドミグラスソースが自慢の特製ハヤシライスやマフィンなど、中学時代の同級生である奥様の得意料理が出される。そして目を引くのは、店内の一角に設けられた雑貨コーナー。Tシャツ、ポストカード、梅干しをモチーフにしたピアスなど思わず「かわいい!」と手に取りたくなる雑貨が並ぶ。店は、和歌山、三重、奈良にまたがる県境に位置するため、3県で活躍する作家さんの作品をセレクトしている。
「十津川村だけでなく、熊野に来た人にも楽しんでもらえるよう、近県で活躍する作家さんのアイテムを置いています」
おととし、建物は県の指定文化財に指定された。「最終的なゴールは宿泊機能を復活させること。そして、この店だけでなく、瀞峡全体の盛り上がりも作っていけたら。ここには100年以上の歴史もあって、手付かずの地域資源が今も残っている。物語性も十分にあります。もっと多くの人に知ってもらって、ここに来ていただける仕掛けを作りたい」
その一つがお土産作り。アパレル時代のデザイナーに協力してもらい、瀞峡のリブランディングを行い、自分が欲しくなるようなお土産を作りたいと考えている。また、2年前からはカヌーにも挑戦している。「ここの雰囲気に合った体験を考えた時、まずは、自分が知らないと、お客様に自信を持ってご案内できないと思って」。さらに、器や雑貨、写真などを通して、瀞ホテルの歴史をひもとく展示会を企画したり、十津川の木材を使ったワークショップを行うなど、この地の魅力を掘り起こすイベントも開催している。
「商売を始めてからですね。この建物、そして瀞峡の歴史を伝え、この先も残していきたいと思うようになったのは」
東さんの手で、新たな光を当てられた瀞峡と瀞ホテル。すべての始まりは、未曾有の豪雨災害がきっかけだった。災害からの再生と復興。東さんの挑戦は続いている。

2019年7月取材
執筆:高橋秀子 撮影:田村寛維